文:野村和寿
誰もがきっと一度は耳にしたことのあるあの曲、しかし全部を聴き通したことのある方は少ないのでは? R.シュトラウスの本曲を書いたきっかけとは?
シュトラウスというと、優雅なウインナ・ワルツを思いだすかもしれません。そちらはヨハン・シュトラウス。しかしです。もうひとりリヒャルト・シュトラウス(以下R.シュトラウスと略)を忘れてはいませんか?そうです、あの映画『2001年宇宙の旅』で有名な音楽。音の広がりの中に身をまかせるとき、きっと、至福のときが始まるはずです。
『R.シュトラウス 交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》他』
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
MQA-CD
ユニバーサルミュージック
3,000円+税
みなさんのなかには、R.シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』といえば、冒頭の壮大なオーケストラとくにトランペットのファンファーレとティンパニ、そしてパイプオルガンとによる強奏の部分を思い出される方もおられるのではないかと思う。
しかし、残念ながら、本曲のほかの部分といえば、あまり聴く機会がなかったかもしれない。それは大いにもったいない。ぜひ、この機会に、最初から最後まで通して約34分の一大ページェントを試聴されることをお勧めする。
この曲はいったいどんな曲?と尋ねられれば、ひとことでいえば、日本旅館の豪華な夕食を思い出してほしい。刺身から天ぷら、ステーキから鍋、いったいどこからはしをつけてよいやら、迷ってしまうほどの、品数と皿の多さ、逸品料理の数々。結局のところ、ほとんどすべて、最後のデザートに至るまで、きれいに平らげてしまう。R.シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』の音楽と似ている。
登場する楽器の多さもさることながら、ソロを受け持つ楽器の多いこともその一つ。オーケストラのリーダーである、コンサートマスターのバイオリン・ソロも聴けるし、弦楽器の首席奏者たちによる、静かでたっぷりとした弦楽四重奏も聴ける。おまけにバイオリン奏者は一人一人弾くところが細かく異なっている。おどろおどろしさまで感じられるチェロとコントラバスの豪壮な駆け上がりがあるかと思えば、ついには、いつもはあまりオーケストラ曲に登場することのなかった、パイプオルガンや、何台ものハープ、はては、教会の鐘まで登場する。
本曲は、細かく9つの部分に分かれているが、それらは続けて演奏されるために、どこどこに何が登場するということを、聴く側はあまり意識せずとも、いろいろな聴くべき箇所を次々に発見するだろう。
トラック1の「序章」は、まさに宇宙の夜明けを感じさせるような、いつ聴いてもどきどきさせられる部分であるが、最初、大太鼓と、コントラバスがごくごく弱い音で鳴っている。中にはパイプオルガンの低音も聴こえる。そこに、おごそかにトランペットのソロが登場し、3つの音を奏するかと思うと、ティンパニが一閃、4つの音をたたき出し、一挙に盛り上がる。
トラック2は「後の世の人々について」と題され、うってかわって、静かで暗示的、パイプオルガンが静かに始まるかと思うと、弦楽器のつまびくピチカートにのって、弦楽器のバイオリンとビオラの首席奏者たちによる、静かな室内楽が始まる。バイオリン群に引き継がれたメロディーは、どこか、昔を思い出すような、遠くを見つめるような実にゆったりとした風情だ。
トラック3は、「大いなる憧憬(しょうけい)について」と題され、弦楽器全員(テュッティ)から、1のファンファーレが静かに復唱(リフレイン)されて、昔のよきできごとを思い出すようだ。静かにホルンが登場したかと思うと、パイプオルガンが静かなメロディーで入ってくる。すると今度は静けさを打ち消すかのように、チェロとコントラバスの低音楽器が激しく分け入ってくる。
トラック4は、「歓喜と情熱について」と題され、打って変わって激しい曲調である。激しく揺れに揺れる。バイオリンは疾風のように舞い、金管楽器のトロンボーンがバリバリッとさらに激しく、しまいには、あらゆるオーケストラの楽器がうねりをみせる。このあたりはR.シュトラウスの真骨頂といえる。
トラック5は、「埋葬の歌」。今度は前曲から打って変わったように、広がり感のある静かな曲が聴こえる。メロディーを切なく奏でるオーケストラ。このあたりは、実に聴いていて、パースペクティブで自由な広がりを感じさせる。
トラック6は、「科学について」。チェロとコントラバスの低音楽器による、厳しいなかにも、厳かな誘いは、作曲当時R.シュトラウスが、イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィン(1809-1882年)の唱えた進化論に影響を受け「人間は着実に進化している」ということを、R.シュトラウス自身でもはっきりと信じようとでも言っているかのようだ。あたりは光明が明けてみるみるうちに、明るさと陽気さをおびてくる。さらに1のファンファーレがゆっくりと鳴りだす。聴いていて実に前向きな姿勢がいい。
トラック7は、「病より癒え行く者」今度もチェロとコントラバスの低音群だが、早めの厳しい曲調が、バイオリンの高弦群と、激しく対立関係を生み出し、聴く者の胸を打つ。オーケストラにどんどんと厳しさは広がっていき、そのうちに、ついに、トラック1のファンファーレがついに、大きく鳴り響く。まさにクライマックスである。ここですべてが終わりかと思うと、さらに、このうねりは余波を続けて激しく波打つ。 ここでは、チェロのソロに促されるように、録音当時、ウィーン・フィルのコンサートマスターだったウィリー・ボスコフスキーが奏でる優雅なワルツが聴きもの。
トラック8は、「舞踏の歌」。バイオリンのソロはさらに深みを増して盛り上がる。この音楽の楽しさは、少々19世紀末を思わせる舞踏=ワルツだ。それに影響されたかのように、だんだんとオーケストラ全体に伝わっていき、ワルツ音楽が、一大ページェントと化して高らかに舞う。
トラック9は、「夜とさすらいの歌」。8に引き続き、まさに終末にむかって音楽は大団円を迎えるかのようだ。音楽はどこまでも盛り上がっていき、さらには、教会の鐘まで高らかに鳴り最高の盛り上がりをみせる。ハープが入ってきて、バイオリンの音数も少なくなりながら、だんだんと静かに、厳かになり、曲は静かに印象的な終わりを迎える。
このように本曲は決してこけおどしの強烈さが真骨頂な曲ではなくて、音楽のなかの、豪壮な部分、デリケートな部分、パースペクティブな部分、人間の個性が優しく語りかける部分と、さまざまな要素がわずかおよそ34分のうちに繰り広げられる。人間はそう捨てたもんじゃない、あくまでも、聴いていてポジティブ(積極的)になることができる音楽である。
ここからは本曲の背景説明である。
作曲したR.シュトラウス(1864−1949年)は、ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(1844−1900年)の著書『ツァラトゥストラはかく語りき(1885年発表)を読んでいたく感激し、本作を1896年にオーケストラ曲として作曲した。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は、「人間が生きていくにはどうすべきか? 人間が人として克服しなければならないことは何なのか? 人間はそれを克服するために、いったい何をしたのか?」ということについて、山で修行して下山してきた神話的世界の住人ツァラトゥストラが、弟子たちや民衆に向かって説いている。「人間が生きていくにはどうすべきか? どうしたら人間は人間を超える『超人』になれるか?」について、読み手にいろいろな指針を与えている。
ニーチェの生み出した最終的結論は、ツァラトゥストラをして、「人間は結局のところ、自分の生きた人生を何度生まれても繰り返す」とする「永劫回帰」という思想にたどりつく。「永劫回帰」とは煎じ詰めて言えば、「人生は何度やっても同じ人生がやってくるから、今生きている人生こそを大事にしよう」と考えるニーチェの思想だと、私は考える。
ニーチェのこの本を読んで、いったいR.シュトラウスはどこにいたく感激したのか? ということを確かめるために、私も、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』上・下巻を、R.シュトラウスに成り代わったつもりで再読してみることにした。上巻に「歓楽と情熱」と題する章があり、「創造的情熱を有する人間には、一切が道徳と化する」(『ツァラトゥストラはかく語りき』上巻 ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮文庫所収)という一文をみつけた。ニーチェは今まで、営々と守られてきた、人間の「道徳」をただ単に守り続けていくのではなくて、「創造的情熱」を賞賛しているのである。「道徳とは創造して情熱で自分で作るものなのだ」という意味だと、私は思った。もしかするとだが、R.シュトラウスが作曲家として、まさに、この部分にいたく感激し、まったくそう思ったのではないか。
そこで、R.シュトラウスも『ツァラトゥストラはかく語りき』をオーケストラ作品として作曲するに至ったのではないか?と思えるのである。
ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』に感激したもう一人に、イギリスの映画監督スタンリー・キューブリックがいる。1968年制作の英国・米国映画『2001宇宙の旅』をもう一度見直してみた。映画が始まってから約3分後からR.シュトラウスの『ツァラトゥトラはかく語りき』のテーマの「モノリス(神の象徴としてこの映画の中の重要な場面で何度も登場する石の板)と惑星との直列した映像とともにわずか1分36秒だけ流れ、まさにこのシーンこそが一躍有名になったわけだ。
さらに映画がはじまって、約15分後、再びR.シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』のメロディーが登場する。類人猿が動物の骨を武器として使うことを思いつくが、類人猿同士の争いへと発展する。雄叫びのように、動物の骨を空に向かって放り上げ、その骨がくるくると回り、やがて地球から月への連絡宇宙船になる。はじめて、ヨハン・シュトラウスのウィンナ・ワルツ『美しき青きドナウ』が流れる。ここで観ている我々は、思わず「2001年」(制作された1968年からみればずっと先)の未来を見せられたようで、その未来はといえば、人間の進歩が続いている様子なので、思わずほっとしてしまう。
本曲の録音についてのエピソードもあまりにも劇的である。
本曲を演奏しているのは、コンサートマスター ウィリー・ボスコフスキー(1909-1991年)率いるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。いつもは、ウィーンの国立歌劇場のオペラのオーケストラを務めているメンバーが自主的に組織している団体である。そこに、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが初めて乗り込むことになる。1957年、10年間におよぶ英EMIと専属契約を満期になったカラヤンが、ウィーン・フィルとの演奏を望んだのである。
レコード会社も、英EMI(現ワーナー・クラシックス)のライバルだった英DECCA(デッカ・現ユニバーサル・ミュージック)である。英DECCAは、第2次世界大戦後の勝利した連合国側の優位にたち、潤沢なポンドを武器に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と専属契約を締結していた。従って、DECCA以外のレコード会社は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と録音することはできなかった。
そして、カラヤンは英DECCAとの間でウィーン・フィルとともに1957年から1963年にかけて、約20タイトル以上の録音を行うことになる。そのなかの、最初の1枚が、本作品だった。(続きを読む)
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